「『半神』における「半神」という言葉の意味」
1.はじめに(『半神』のあらすじ)
主人公ユージーとその妹ユーシーは一卵性双生児であるが、腰の部分でつながっている。シャム
双生児である。妹のユーシーは自分で栄養素を作ることができないので、姉のユージーの養分をアクマのように吸い取って生きている。
養分の殆どがユーシーに行ってしまうため、ユーシーが天使のように美しいのに対し、姉のユー
ジーはやせっぽちで「塩づけのキュウリ」のように醜い。
またユーシーが白痴でひ弱あるのに対し、ユージーは頭がよく頑丈である。
人々は「天使」のようなユーシーばかりを熱愛する。
が、とうとう切断手術をしなければ二人とも命を落とすという状況に陥る。手術をしてもユー
ジーしか助けられない。自分で栄養が作れないユーシーは死ぬしかないのだ。しかし手術は決行され、成功する。
自分自身に栄養が回るようになったユージーにはみるみる肉がつき、かつてのユーシーのように
美しくなっていく。対してユーシーはどんどん干からび、今までのユージーそっくりに醜くやつれて死んでいく。
話の筋としてはこれだけのものである。
この作品は『半神』というタイトルを冠しているにも関わらず、作品中では一度も「半神」とい
う言葉が登場しない。「はんしん」は全て「半身」で表記される。
また、「神」という言葉に呼応する「アクマ」「天使」などという言葉が散りばめられる。
一体、この作品における「アクマ」「天使」そして「半神」とは何なのか。
本稿では、本作におけるこのような言葉の意義を考察し、同時にその主題を考えてみたい。
2.憎しみの「アクマ」愛情の「天使」、融合の「神」
ユーシーはその美しさ、白痴ゆえの無垢さから、人々から「天使」と呼ばれた。が、ユージーに
とっては自分の栄養分を吸い取ってしまう上に、面倒を見なければいけない邪魔な「アクマ」のような存在である。
手術を受けることになったときにも、ユージーは喜びこそすれ、ユーシーに必ず訪れる死を悼
み、惜しむ気持ちはどこにもない。自分の血を分けた双子の妹であるがゆえに、その憎しみは想像を絶するほど深い。
その憎しみが解けるのは、切断手術後、ひからびて醜い姿に変わり果て、いよいよ死に瀕してい
るユーシーを見舞うときである。
術後はじめて会う醜い妹を、ユージーは驚きの眼でもって見下ろす。突っ立ったまま、何か異質
なものでも見るかのように。
この「驚きの眼」が非常に印象的なのであるが、それは妹がかつての自分そっくりの姿になって
いる衝撃に由来するのではない。それだけならもっと、単純な「オドロキの表情」をしている筈である。
そうではなく、彼女は自己の内部での妹に対する価値観の変化に戸惑っているのである。
ユージーがその大きく見開いた眼で見ているのは、自分の心である。かつての自分の姿を通し
て、自分の心の動きを見ているのである。
では、どんな心の動きだったのか。
おそらく、この時はじめてユージーはユーシーが自分にとって「アクマ」ではなく「半神」であった事に気がついたのだ。
ユージーにとっては、憎むべき対象が「アクマ」であり、愛しむべき対象が「天使」であ
り、それらをすべて内在するのが「神」であると私は考える。
今までもずっとユーシーはユージーの「半身」=「半神」、「神」であった。つまり、憎むべき
存在であり、同時に愛すべき存在であった。
しかし彼女は今まで自分のそんな心に気がつかなかった。
妹を「アクマ」としか思ってこなかった。
そして憎むと同じに愛していると気がついたのは、半身を喪うその時になってからであった。
彼女の妹は、この世でもっとも憎む、そしてもっとも愛する「半神」だったのだ。
3.「神」を失う意義
三年後、美しい少女になったユージーが鏡の中の自分を見てユーシーを想い涙する。
愛よりももっと深く愛してい
たよおまえを
憎しみもかなわぬほどに憎んでいたよおまえを
わたしに重なる影―――
わたしの神―――
ユージーは自分の「半身」を失った。『わたしの神』を喪った。
これは「自己の死」である。と私は考える。
深いつながり、血ばかりでなく精神世界においても理屈抜きのつながりを持った肉親の死は、そ
の人物との生活や精神的交流などの一切を断ち切られることである。死はその人物の個体としての生命活動の終焉であるとともに、受け手(家族)の精神世界で
のその人物の死をも意味する。後者はあくまで受け手の内部での現象であり、受け手自身の一部を失うことではなかろうか。「自己の死」である。
ましてやユージーとユーシーは生れてこのかた文字通り片時も離れたことのない「半身」であ
る。見舞いの場面における『死んでいくのは自分じゃないか』という言葉からもこのことはうかがわれる。
「神」という深い愛憎の対象を失うことは「自己の死」を意味する―――。
それが、自分そっくりになって死んでいった「半身」の話を描いたこの作品の主題ではないだろ
うか。
こうした解釈は、作品中の「天使」「アクマ」「神」、そしてそれらがすべて集約されたタイト
ルの『半神』、というキーワードをどのような異化表現として受け取るかにかかっている。
私は以上のように解釈したが、また別の視点からの解釈も可能であろう。
そのような本作品の幅の広さがあってはじめて、今はなき、劇団「夢の遊眠社」の『半神』などの二次生産物を産み出すことが可能なのである。
5.おわりに(漫画表現の可能性)
私はこのような本作品の価値に改めて気付いたとき、漫画というものに対して畏敬の念を抱い
た。
とてもたったの15ページとは思えない。(短編の漫画でも、普通二十ページぐらいはある)
この内容の濃さと膨らみは、絵と文との絶妙な相乗効果によってもたらされている。
たった一コマの絵でも、小説では説明できない様々のことを語り(例えば前出の見舞いシーンの
眼のように)、独特の間と雰囲気で、同じビジュアル物でも、映画などでは表現できない主人公の閉ざされた精神世界を描き出す。
文に関しては、会話文以外はすべてユージーの一人称で構成され、手術を受ける以前はです・ま
す調を用い、術後はだ・である調に変わる。(これは「自己の死」による主人公の精神世界の変化を描こうとしているものと思われる)
そして間には詩的な文章も挿入され、作品中の言葉の意味を深めている。
このような絵と文による相乗効果は漫画ならではである。
私はそれまでも「漫画は立派な表現のジャンルだ。漫画だからこそ素晴らしい作品というのがい
くらでもある」とは思っていたが、これほどに無駄というものを削ぎ落とし、あらゆる要素を凝縮した詩的・哲学的な漫画にはお目にかかったことがなかった。
漫画に対する眼というものを、漫画世代の私自身がまず問い直させられた。
たった15ページの本作は、漫画表現の金字塔であると言えよう。
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