修羅の門 戻る
私は川原氏の創作家としての誠実さに疑問を持つ、英検1級所持・TOEIC
925点の会社員です。
私は格闘技漫画が好きではないのですが、「修羅の門」だけは、最初のうちは楽しんで読めました。会話が上手に書けているからです。「バキ」と異なり、同じ現実離れした格闘技を描いていても、女の子も含め(笑)人間もきちんと描けています。各キャラの描きわけも上手です。しかしボクシング編が始まったとたん、その魅力ある会話がどんどんうさんくさくなってきました。
まず、外人が喋る日本語が異常です。私の知っている何十人もの在日外国人は、本当に流暢な人は語尾に「-ね?」などはつけないし、下手な人だとああも巧みに助動詞と助詞が操れません。次に、時折出てくる英語がきわめて不自然。アメリカ人が普段使わないようなマイナーな表現ばかりです。さらには、「外国人」が一人も出てこない。日本人くさいキャラばかり。金髪の女の子が出てきて陸奥に向かって舌を出しますが、私は嘲弄を示すために舌を出す外人の少女に、現実にも映画でも出会った試しがありません。せりふ回しにもアメリカ人らしいウィットは見られない。
私が、買ったばかりのコミックスを地下鉄のゴミ箱に叩き込んだのは、陸奥と黒人ボクサーが腕相撲をする(と後で知った)店の看板にかかれていた、確か次のような英語を読んだときです。"American
Casual Food, Eat Here." 「アメリカの普段の料理、ここで食らえ」読者を馬鹿にするのもいい加減にしろっ!
弘兼憲史氏は、「島耕作」で舞台をアメリカに移す際、英語を勉強して、取材のため渡米しています。その結果、出てくる米人にはそれなりの現実味がある。しかし川原氏は、英語が絶望的に不得意で、外人の友達が一人もいないにもかかわらず、まともな取材もせずに「修羅の門」を書いたとしか思えないのです。
「所詮子供向きのマンガ」というスタンスが見え見えのボクシング編のリアリズムは、ギャグ漫画以下です(「こち亀」のほうが、資料を調べ尽くしている分、何倍もリアルです)。それでも、「修羅の門」は傑作ですか?
格闘技の知識があるからこそ、川原氏の格闘シーンには、科学的に見れば無理な技のオンパレードであるにもかかわらず、それなりの説得力があるのです。しかし英語はからきしダメです。私が川原氏なら第一部完の時点で休載し、英語の勉強とアメリカ取材を敢行します。それでも描けそうになければ、その時点ではアメリカを舞台にした物語などかかなければよい。連載をうち切るか、日本を舞台に別の物語を展開します。「修羅の刻」に集中すればよい。あの時点で「門」は売れていたのだから、彼は金には困っていなかったはずです。なぜそのままボクシング編になだれ込んだか?「戦争と平和」を描くために図書館丸ごと一つ分の資料を読んだというトルストイなら、どんなに読者の支持や編集部の圧力があっても、はねつけて機が熟すまで待ったはずです。しかし川原氏は、知らないところを徹底的にごまかすという、マンガにしか通用しない作戦で「急場」をしのいだ。創作家の良心を商業主義に売り渡したとしか思えない。忙しいのは理由になりません。忙しかったら、作品の進行を止めればいいのだから。
私はただ単に憤懣をぶつけているのではありません。きちんと取材の行き届いた作品と、ちゃらんぽらんに描かれた作品がごっちゃに「所詮はマンガ」という屈辱的なカテゴリーに押し込められているのを手をつかねて見ているのがいやになったので、ほかの読者の方々に作者のとてつもない手抜きをお知らせしたかったのです。漫画家のみなさんは、漫画家が「まあ、マンガだからいいや」と思って手を抜いたら最後、自分ばかりでなくほかの漫画家の作品もひっくるめて、論ずるに値しないと世間から思われるということを鋭く認識すべきです。空想科学読本などというトンデモ本がベストセラーとして跋扈するなげかわしい状況を作り出した責任のいったんは、やはり漫画家の側にあります。(2003/3
富沢矩広)