論者●かわい道生(掲示板より転載。なお書き込みはかわいさんが直接されたのではなく、以下にも登場する「代筆者」の方がされました。)
はじめまして。「スケバン刑事2nd」について書かせていただきますかわい道生(PN)と申します。
2ndについて私が思ったのは、「スケバン刑事の本質」は、こういうことなのだ、ということです。
「魂と魂のぶつかりあい」というのが一体、どういう形であるか、本編は、他人を頼まずただひたすら「戦う」事で想いをぶつけ合ったのに対して、2ndは「戦い」にもう一つ誰にも邪魔されない「言葉にならない想いをかわす、心の交流」(レズ、という言い方もあるけど)がある、という事、描き方が違うだけで、あとは何も変わっていない、と私は思うのです。
そういった想いなら、あんな同人チックな描き方をしなくてもいいじゃないか!と、言われそうなんですが、そうだったら何故わざわざリメイクしたのか、そのものの意味がなくなってしまうと、私は思うのです。リメイクというのは、昔の作品をそのまんま描くことではないんですよ、昔の作品のイメージを残していかに新しいストーリーを作るか、それこそがリメイクの意に叶っているのでは?
実を言うと私は2ndに対して、少し怖い感じも受けています。というのは、佑希と麗華は、サキと麗巳と違ってすごく悲劇的な運命が待ち受けているのでは?と。
何故なら、前者は滴として相手を憎み、友としてあり続けるにも、戦うことでしか想いを伝えられない、これもまた悲劇なのですが、後者の方は、相手の息づかいを感じるほどに近くにいながら、袂を分かち、殺し合わなければならない、そういった運命が待ち受けていることは火を見るより明らか、前者よりも苦しく、辛い戦いをしなければならなくなるだから、私は怖いのです。
ここまで読んでいただければ、わかったかと思われますが、私は「2nd」が好きな人間です。私にとって「2nd」は、本編とは、また別の次元の作品です。根底では同一な物として見ていますが、「平成版スケバン刑事」というものとして認識しています。こうい私は、OVA版の方も、原作とは違う作品と見ているし、ドラマ版もまた、しかり。
はっきり言うと、「昔と同じ作品を!」というのは、和田慎二先生ももう、お歳を召されているのだし、時代が流れている以上、それは無理なんです。(同じものを描いたら、それでこそ「つまらない」と言われるだけです。何故って、旧作を知らない読者が読んだら、それでこそ「時代遅れ」と笑われるだけだと思うから)
私自身は「イメージを崩さなければストーリーが違ってもオチが違っても、スケバン刑事なんだ」というものがあるのです。こんな思いを抱く理由は、私は原作全部読んでからも「スケバン刑事」にどうしようもなく飢えていて、そう、あれで終わったという意識が未だになく、どんな形でもいいから「スケバン刑事」を私に見せて下さい、ストーリーが違っても、あのイメージと世界にリアルタイムで会いたい、そんな気持ちがずっとあって同人界に入ったのも、それが最大の理由でした。だから「2nd」が好きなんだろうなぁ。
最後に「2nd」を否定する方へ。
もう一度、本編を熟読して欲しいのです。そうして、考えて欲しいのです。「2nd」は和田先生が描きたかったであろう、サキと麗巳の「もう一つの関係」なのです。これは、切実な希望です。
この意見文を読んで下さって、「2nd」を好きになって下さる方が独りでも多く、いて下さるように……。 かわい道生
追伸
それにしてもファンというものは何故こうも……なんだろうかと思います。
ドラマ版の時はもう、メチャクチャな言われようで、私自身ひどいショックを受けてしまったのですが、「和田先生以外の人がやった事だから」と納得したのですが、和田先生本人が、いざ描いたら描いたで、否定派がメチャクチャ言い始めるんだもの。どっちも同じなんじゃないか!!と思わざるを得ません。
そんなに「2nd」が気に入らないんでしたら、同人でも何でもやって、和田先生に送りつけてあげればいいじゃないか、と言いたいです。
「好きだから」我慢できることにも限度があります。原作の続編の件で、ドラマ版の時と同じ様なショックを受けなければならないなんて…「好きだから」妥協できない、というのはわかるんですけど…ねぇ。
こういう反応するから「あなたには自分というものがないんだ」と言われるんだろうなぁ。【代筆者注*自分がない=彼女自身が言うには「何でも構わない」という性格的な面の事のようです。これは、こうでなければいけないんだ!!という強烈なものがないという事だそうです】
【代筆者が個人的に質問した「この先、学生刑事の設定は出てくるか?」の問いに対して】
YES。その理由はといいますと、タイトルに「刑事」が付くのだし、「力」を持った麗華に対し、佑希は、それらを全く持ち合わせていない。何もなくても佑希は戦うだろうけども持つに越したことはない「力」がないと、佑希の力は発揮されないのでは?(志は有っても)「刑事」になる事が二人の間を分かつ事になるかもしれないし、心を交わした「友」を「敵」として見なければならない時、そこから生まれる葛藤が、話を作れると思う…。そう2ndは「敵」から心を通わせる「友」になり、でも「敵」になってしまう、そういった心の葛藤、悲しみ、苦しみが表に出てくるかもしれない…私はそういう話を続編として期待しています。
私には、あの二人がハッピーエンドになったと思えないんです。一見、ハッピーエンドに見えるけど実のところ二人は、二人だけの世界に逃避している。私は、そう思いました。
あの二人が本当にすべき事は、ずばり「コインロッカーにすがりつく心を捨てる」という事。
「大人になれ」ということなんです。親なんか必要ないと言う人が何故、コインロッカーにすがりつくのか私には解せません。
だから、前作と構図が変わっていないんです。母親(ナツ)がコインロッカーに化けただけ。
麗巳の設定がサキと同じ物になったのは、これは「時代の流れ」から。今は、どういうものであれ、理由が求められる時代であると、私は感じるので、(今や悪にも理由のある時代なのに)「全く価値観も違うのに、普通なら憎みあっててもいい二人が、どうして心を通じ合わせられるのか」その理由を「コインロッカー」に求めたのだと、私は思います。それに「今やコインロッカーベイピーなんて存在しない」と言われますが《表に出ない》というだけで、実はまだ続いていると思えます。(尾崎南さんだって94年頃に、そのことを少し漫画で描いているのに)【代筆者注*彼女は、尾崎南さんの「絶愛」に強く影響されている様です】あれほど子どもを捨てるのに、都合のいい場所もないと思えるんだが…。今は毎日見回るらしいから、死んでいない限りは、ニュースにならない様な気がする。
何より何故あの二人は「満たされない想い」を抱えていたのか。麗華は「人間は皆バカだ」と言っていたように、佑希も「他人は自分を分かっていない」と、二人とも他者を完全に拒否しちゃっている。(ノリコちゃんは「すがってくる相手」だから「自分が弱いところを見せちゃいけない」と暗に思っている様な気が…)
人間は一人じゃ生きられないけど《二人だけの世界》でも、生きてはいけない。生きている限り、他者を存在させ巻き込まないと、人の心の成長は止まってしまう……。麗華には「二人きりの世界に生きよう」という心の面が、ものすごく垣間見えるのです(それだけの力を持っているし)。でも佑希は違うような気がする。この二人の間は、間違いなく埋まらないような気が……。
「スケバン刑事」の世界をここまで深く掘り下げられたのは、実は「FFれ」が、これと全く同じ構図を持った話だったから…だったりするわけです。セフィロスとクラウドの関係って、まさにこれなんですよ。これにすっ転んだので2nd好きになったといってもいい、マジ。【代筆者注*彼女は、PSゲーム「ファイナルファンタジーン」にも強く影響されている】
私には「2nd」は、アクション主体の話ではなく、キャラクターの心理の方が重く、より表に出た話になると、にらんでいます。前作のようなアクションストーリー主体の話には、ならないような気がします。「少女鮫」だって、キャラクターがより表に出た話でしょ?
以上で終わりです。お疲れさまでした。
●代筆の方によるフォロー(98/11/12)
*コインロッカーの記述について*
赤ちゃんにしても、10年で破棄される事も、それは取材に裏付けられたことで単に和田先生が考え出したものではない……と言いたかったんだそうです。
和田先生に限らず、今の漫画は必ず取材をして、確認してから描くので、コインロッカーの件も、事実だろうと言うことです。
*ファイナルファンタジー7*
かわいさんは、セフィロスとクラウドの関係と、佑希と麗華の関係が同じに見えるそうですが(私はプレイした事がないので、わからないです)同じFF7ファンでも
「全然違うよ」と言う人もいるので、これは「かわいさんだけの意見」として下さい。
名前に関しては、ファンが混同するというのは本当だろうと。かわいさんの友達に「バラの追跡」と「バラの迷路」を同一世界と見ていた人がいたそうで、私も先の連載「怪盗アマリリス」を昔の「快盗アマリリス」の続きと最初は思っていたので和田先生が先手を打ったのかな? ……そう、和田ワールドの人物リストですが、#「バラの迷宮」を「バラの迷路」に
#「快盗アマリリス予告編」は「怪盗アマリリス予告編」にお手数ですが、直しておいて下さると、ありがたいです。
サキと麗巳だったら、タイトルのどこかに「アナザーワールド」と付いて
絶対「2nd」にはならなかっただろう、どんな形であれ佑希が2代目のスケバン刑事になるだろう……だそうです。でも実際に、あの設定の中に学生刑事が入れられるかは、ちょっと心配だそうですが。
違うキャラだったら「なーんだ、これ、サキと麗巳」と言われてしまう。それはそれで、また問題だと。(生まれ変わった魂としてなら、それで良いと私は思いますが)
ただ肯定派と言っても、かわいさんのように続きを希望する人や、あれで終わって欲しいと思っている人(続ければ結局同じラストに行き着くだろうから。同じ物は見たくない)一見肯定派に見えても、どうも中立派な感じの人など様々みたいです。
60Pで自分が批判するだけの内容の漫画が描けますか?
プロだったら描けるという問題ではなく、意見(批判)を言うのであれば、その意見文に値する事をあなたは実際にできますか?
和田先生が手抜きしたとは思えないし、前後編100Pくらいなら手抜きと言われずに済んだのかもしれないけれど、ページ増やしたら、たぶん中身スカスカの漫画になったし、あの中に不必要なシーンはなく、60Pだったからこそ、密度の濃い作品に成り得た。
本当に低レベルなら私だって否定論出します。2ndは何回でも読み返せる作品に仕上がっている。中身スカスカではなく、きちんと引っ張ってくれて最後まで読ませる作品に仕上がっているから何回も何回も読み返すことが出来る。
作品に対する「真の想い」は我々ファンよりも和田先生御自身がよく知ってらっしゃって、肯定にしても否定にしても、それは結局「ファンの主観論」にすぎない。
(<反論1 右上へ!)
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かわいさん、はじめまして。晶と申します。まず最初に、否定論が大変遅くなりましたことを深くお詫びします。以下、否定論をまとめて書きたいと思います。
一、「スケバン刑事」本編の本質及びリメイクについて
1、「スケバン刑事」の本質について
「スケバン刑事(以下本編とする)」の本質は、あくまでも「一人の戦士の生き様」であり、「魂と魂のぶつかりあい」はそれに付随したテーマの一つであると私は考えています。
まず、サキと麗巳にはその周囲に様々な人間がいました。しかしその多くは彼女らの生き様に心酔するあまり肝心の彼女達自身についておざなりにする傾向がありました。彼女たちの悲劇は、かわいさんの指摘するものよりもむしろ「あれほど多くの人間に取り囲まれながら味方に友を得ることができない孤独の深さ」にあると私は思います。その彼女達自身を初めて見出し強く意識した人物こそが敵であるお互いだったのです。
また彼女達は視線が合っただけで一瞬にして互いの技量、能力そしてその危険性を見抜きました。それまで能力を正当に評価されなかった彼女達にとってお互いが初めての「真の自己を見つけた相手」だったのです。自分のことを正確に理解している人間という意味では、確かに「友」と言えるのかもしれません。
しかしながら、世界観も善悪の判断も正反対の彼女達にとって自らの生き方を貫くためにはお互いは不倶戴天の敵でこそあれ決して「友」ではありえなかったのです。そして彼女達もお互いを評価してはいるものの戦うことにためらいは見せませんでした。実際に本編でもサキと麗巳との関係を「敵でありながら生まれながらの友」と表現したのはその周囲の人間で彼女達ではありませんでした。
以上のことから本編の本質は、いかなる逆境においても前を見据えて戦場へ赴く孤独な戦士の姿にあると私は考えます。
2、リメイクについて
私も、リメイクに必要なことはかわいさんのおっしゃる通り「昔のイメージを残していかに新しい話を作るか」だと思います。本編と全く同種の作品は単なる二番煎じに過ぎないし私もそれは望みません。
私が「2nd」に望んでいたのはサキの心情面を重視した話でした。というのも、本編の場合アクションを重視するあまり登場人物の心情面がやや置き去りにされる傾向があったからです。実際に、
サキに次々と立ちはだかる試練は専ら彼女の戦士の側面の成長を促すものでした。その結果、彼女はあれだけ鋭い頭脳と高い戦闘能力を持ちながら処世術を知らないという極端な人物になりました。
幾多の試練を乗り越えるサキの崇高な姿は勿論好きでしたが、それとは異なる新しい魅力を持ったサキの姿を私は「2nd」に期待していました。しかしながら実際の「2nd−プレリュードー」は本編のリメイクとは到底認められない作品でした。
二、「2ndープレリュードー」設定面への批判
1、登場人物の姿形が同じであるにもかかわらず変名されている点
この作品では麻宮サキが天宮佑希に、海槌麗巳が氷室麗華にと変名されています。これは本編と「2nd−プレリュード」とを読者が混乱しないための措置だそうです。しかし仮に「2nd−プレリュード」が本編と別次元の話であるにしても本編とは別の話に本編と同じ容姿を持つ人物を登場人物にする行為自体が混乱の元凶であり、「2nd−プレリュード」には新しい登場人物を設定するべきでした。また好評を博した本編の登場人物の外見を流用する以上、本編に敬意を表して生活設定は変えても名前は元のままにするのが本編並びに本編ファンに対する最低限の礼儀であると考えます。
もっとも、麻宮サキの話を描くつもりがないのに同じ外見の人物の話を描くこと自体矛盾していることなのですが。
2、性質の違う話に本編の登場人物を無理に投入したことで話に無理が生じている点
「2nd−プレリュードー」は、ねたはあるが登場人物がない話に本編登場人物を組み入れたことにより生まれた話です。このことにより話の展開が多々不自然になり説得力に欠けたものとなりました。
そもそも、話の登場人物は話自体から生じるもので、他の作品の登場人物を投入すれば摩擦が起こるのは必至です。かかる危険性が高いにもかかわらず、「話にサキと麗巳を合わせるとぴったりする」と考えあえてそれを行った和田先生の考えには疑問を感じずにはいられません。この摩擦の詳細は内容面への批判で後述します。
3、学生刑事の設定がないにもかかわらず題名を「スケバン刑事2nd−プレリュード」とした点
まず、話自体に「学生刑事」の設定が登場しない以上題名を「スケバン刑事2nd」とするべきではありませんでした。仮にこの続編がありそれにこれが登場するとしてもここに登場しない以上同じです。話の内容に全く関係ない設定を題名に掲げるぺきでないのは題名付けの基本です。
以上のように、一方では「本編とは異なる全く新しい話」としながら他方で登場人物の本質が同じとの理由で本編と同じ外見の登場人物で話の題名まで本編の「2nd」とする行為そのものが極めて矛盾しまた本編におもねったものであり、本編の人気を当て込んだものとの謗りは免れぬものと言わざるを得ません。
三、「2nd−プレリュードー」内容面への批判
話を追っていくと、登場人物の当初の敵対関係並びに登場人物のコインロッカーへの極端な依存という話の構造(切り口)が本編と全く変わらないことがわかります。
まず、登場人物の出生「コインロッカーベビー」については佑希と麗華が生まれた80年代に社会問題になっていたことから不自然な設定とはいえません。しかし、その出生から生じた心の傷が同じ物であるがゆえに誰よりもお互いを分かり合えるとの話の展開は安易が過ぎるというものでしょう。
確かに彼女達は同種の心の傷をかかえているのかもしれません。しかし、それ以後の彼女達は全く正反対の生活環境に生きてきたのです。その中でそれぞれ異なる価値観を培いそれにより心の傷の位置付けも異なるものとなったはずです。
これから生まれる対立こそが「2nd−プレリュードー」に描かれるべきでした。
実際に、同じ過去を持ちながら佑希は弱者をかばう道を麗華は弱者を虐げる道を選んでいます。そして二人がであった時に佑希は麗華の発する妖気に危機感を
感じ、麗華は佑希を「退屈をまぎらわす格好の獲物」ととらえているのです。ここまで対立の根が深い二人、表現を変えるとここまで本編を引きずっている二人がたかが「心の傷が同じ」との理由だけで「分かり合える」はずがないのです。
その二人がお互いを理解する契機となる戦闘場面についても中途半端なものでかえって読者の疑問を強めるものとなりました。ついでに戦闘パターンが本編「三匹の蛇逆襲篇」とほぼ同じであることも付け加えるべきでしょう。
そして、佑希と麗巳のコインロッカーへの依存も本編と全く同じで特に新しい工夫も見られません。
この設定が二人の心を通わせるきっかけになるというのでは話の底が浅いというものでしょう。この種の呪縛から開放された彼女達の姿こそが読者の望む話であると思います。
このように話の流れが不自然である原因は、前述のとおり性質の異なる話に本編の登場人物を無理に投入した結果摩擦が生じたからであると思います。話、登場人物、題名という作品の三本柱がそれぞれ成り立たないこのような話に本編の「2ndープレリュード」と題がつけられたことに対して、本編ファンの一人として怒りを禁じ得ません。
四、結論
以上述べたことから私は「2nd−プレリュード」に関しては本編と次元を同じくするか否か以前の根本的な問題を感じています。そのことから「2nd−プレリュード」に対して否定的な立場を取り、この設定のままの続編がないことを願っています。私もかわいさんと同じように本編がとても好きでサキがとても好きで、あの作品に再びリアルタイムで接することができると喜んで「2nd」に大変期待していました。それだけに本編が粗末にされる形となった「2nd−プ
レリュードー」が余りに残念でならないのです。そしてかかる行為をした作者の和田先生の作品制作姿勢に対して残念ながら疑問を感じずにはいられないのです。
まず、ねたはあっても話の核となる登場人物のない話というものは単なるねたにすぎず、作品でも話でもありません。登場人物はあくまでもその話自体から生じるものです。これに本編の登場人物を投入することは、ねたの話を絞り込むものでもなければ「2ndプレリュード」を作るわけでもないという、二重の意味で作品制作を放棄した漫画家を業とする和田先生にあるまじき行為であるといわ
ざるを得ません。
また、最近の和田作品は既存の作品のエピソードを再利用する傾向が見られるが、これらに関しては趣を変えているだけ創意工夫の跡が見られまだ評価できます。問題は「2ndープレリュードー」において、「本編とは異なる新しい形の話」としながら登場人物もその使用する武器も同じでそしてあたかも本編の続編を期待させる題名をつけたことです。設定を少しいじった程度で話にほとんど進歩が見られない内容で「前作を超える」とは笑止千万なことですが、なにより信じられないのが本編とは別の話であるにもかかわらず作品の客観面が前作とまったく同じなことです。予告編でも宣伝においても「2ndプレリュードー」の登場人物の外見こそ同じだが全くの別人という明確な記載はありませんでした。ここまで本編を引きずりながら「サキと麗巳を新しい設定で闘わせる話」と主張するのは単なる詭弁にすぎません。
最後にこの作品により図らずも作品に対する和田先生の考え方が見えてしまったことです。一旦完結したものである以上描きたいとの誘惑があったとしてもそれに耐えるべきでした。既存のねたに本編の登場人物を投入するという安易な方
法で「2nd−プレリュードー」を描くことから和田先生の本編並びに登場人物に対する姿勢が見て取れることになりました。そのくせ本編と客観面では変わらないという姑息な手段での「2nd−プレリュードー」に万が一の期待を込めて「メロディ10月号」を覗いた読者を考えるとその一人として暗澹たる気分にならずにはいられません。
おそらく、「2nd−プレリュード」に対して失望した人間の殆どがこれを感じたのではないかと私は考えます。和田先生のこの傾向が一刻も早く改善されるよう和田ファンの一人として心から願う次第です。一度失望により失われた信頼は二度と帰ってはこないのですから。
まず私が否定論で書いていた「2nd」に対する要望は、「2ndプレリュード」に対するものではなくそれ以降始まるであろう本編全体に対する要望です。それに先立ち始まる「2ndプレリュード」にはその前提としての問題提起の部分を期待していました。
私は漫画を描いた経験がありません。だから60Pで話を構成する難しさを知りませんし自分の意見に合う内容が可能かどうかも判りません。製作側から見えて読者には判らないことがあるのもかわいさんのお手紙で理解できました。しかし「2ndプレリュード」があれほど意見を二分し議論されている以上、果たしてその議論が「ファンの主観論」にすぎないと片づける以前の問題で「2ndプレリュード」に制作側から判らない弱点が実際に存在するのです。
私は否定論を書く際「2ndプレリュード」を何回も読み返しました。
その上での感想が前回の否定論なのです。確かにあのなかには
不必要なシーンはありませんがあれほど個性の強い主人公二人が和解するのに説得力のある場面もありませんでした。表現を変
えると、これを欠くため本編のキャラクターと元のねたという本来性質の異なるものが融合できず分離したままの不自然極まりない作品になっているのです。それゆえ「2ndプレリュード」が人の鑑賞に値するレベルであるとは残念ながら私には思えないのです。
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